この区間の始点---→
この区間の終点---→
249 天神川河口 「
堅田」は 「かた
だ」ではなく 「かた
た」 と読む。
大津方面から行くと、天神川を渡って堅田の町に入る。その天神川が琵琶湖に入る河口にある公園の一部。ここからは浮御堂も琵琶湖大橋も望まれる。
250 浮御堂 正式には海門山満月寺という。近江八景では「堅田の落雁」と歌われているところである。竜宮城を思わせる形の門を入ると、琵琶湖に面して南北に細長い境内は非常に明るくて爽やかな感じがする。湖中に建っている浮御堂へは橋を渡って行くようになっているが、橋が付いている側と反対側の湖に向いた側が正面になる。
浮御堂は湖中に突き出ているので、周囲の眺望は素晴らしく、東に伊吹山、沖島、長命寺山、三上山、 西に比叡山、比良の山々、そして目の前には琵琶湖を一望できる風光絶景の場所である。
鎖(じょう)あけて 月さし入れよ 浮御堂 芭蕉
比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋 芭蕉
湖も この辺りにして 鳥渡る 虚子
251 堅田漁港 現在の堅田漁港は中央にある漁業会館の建物を境に、南と北に二分するような形になっている。 漁港の南半分に漁船は集中しており、狭い港内は漁船がひしめいている。あちらこちらにエビタツベやトロ箱が山のように積んであったり、網や太いロープが干してある。船の上で作業をしている漁師のすぐ傍らにはシラサギやアオサギが平気で寄ってきている。
遠景は三上山。
252 貝殻の村 (1) 堅田漁港の北半分は貝を中心とした作業場になっている。かつては琵琶湖では貝は主要な水産業であった。陸揚げされた貝を種類ごとに選別し、むき身に加工する作業小屋を兼ねた倉庫が幾棟も整然と並んでいる。その裏に、民家の軒と同じ高さまでもある小高い丘がある。よく見るとこれが全て貝殻で出来た山であるのにびっくりする。かつては琵琶湖でもこんなにたくさんの貝が捕れていたことを実感させられるが、今はこの貝殻の山にも、所々に雑草が生えている。
253 貝殻の村 (2) 今はこの貝殻の村も堅田漁港の一部になっているが、昭和45年頃までは堅田漁港は現在の南半分のみの大きさしかなく、ここは漁港の外になり、船は直接、砂浜ならぬ貝殻の浜に着けていた。
むき身に加工した後の貝殻を一輪車で運びやすいように、貝殻の上に板を敷いて道が作られている。
今でも貝は少しは捕れるらしい。それにしてもこの貝殻の山は凄い!
254 居初 (いぞめ)邸 (1) 滋賀県の堅田というところに居初邸(いぞめてい)という旧家があり、そこに琵琶湖を借景にした立派な庭園がある、ということを学生のとき造園の講義で聴いていた。40年以上も前のことである。
居初家は堅田を支配してきた地侍(じざむらい)階級であった殿原衆(とのはらしゅう)のひとつで、刀祢(とね)家、小月(おづき)家とともに御三家に数えられただけあって立派な庭園がある。
書院風の茶室を持つ建物 (写真の右端)はヨシ葺きで、 琵琶湖を借景にした庭園は天然図画亭(てんねんずえてい)と呼ばれている。
琵琶湖から庭先に船を着け、石垣に組み込まれた灯りに導かれて石段を登り、門を潜って庭から建物にアプローチ出来るようになっている。いかにも湖畔の旧家らしい演出である。
現在、この家の主人でいらっしゃる居初(いぞめ)さんのお話によると、昭和30年頃にはまだこの庭先の湖岸で泳いでいたといわれる。ぼくがこの庭園のことを知った頃である。
255 居初 (いぞめ)邸 (2)・天然図画亭 (てんねんずえてい) 居初邸は江戸初期の堅田の文化を示す貴重な文化遺産である。作者は千利休の孫、宋旦の高弟である藤村庸軒(ふじむらようけん)と庸軒の弟子で堅田の郷士である北村幽安(きたむらゆうあん)の合作といわれている。
庭は琵琶湖を借景とした枯山水であり、庭は小さいけれどもツツジが多いので、花の咲く頃はさぞ美しいことだろうと想像される。
256 居初 (いぞめ)邸 (3)・天然図画亭 (てんねんずえてい) 居初邸の書院茶室から見る庭園の眺めは、あっと息を呑むほど素晴らしい。上下は鴨居と敷居の水平線で、左右は柱と障子の垂直線によって縁取りされ、あたかも額縁に収まった一幅の絵画を観ているようである。天然図画亭と呼ばれてきたのももっともだと思う。
今では近くに造船所の大きな建物や琵琶湖大橋が出来、対岸には高層のリゾートマンションやホテルが林立し、ある企業の巨大な体育館まで出来てしまい、この庭園の借景も台無しである。しかし、対岸の近江富士ともいわれる三上山 の優美な姿は昔も今も変わらない。