2013年09月22日
琵琶湖逍遙 尾上~葛籠尾崎~菅浦 2013.09.21
葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦を湖上から訪ねるイベントに参加。
今でもまだ謎の多い葛籠尾崎湖底遺跡であるが、尾上の資料館を見学した後、船に乗って葛籠尾崎湖底遺跡の現場に向かい、遺跡の真上の湖上で説明を聴く。
その後、菅浦に向かう。
いつも見慣れた景色を湖上から見られる滅多にない機会であった。
1.竹生島
尾上漁港から湖上タクシーに分乗して葛籠尾崎に向かう。
天気は上々で、船のスピードで受ける風がとても気持ちいい。
船上から琵琶湖周囲の景色を楽しんでいる内に竹生島が近くなる。ここから見る限り、北面の鵜の被害は一時より減って、緑が回復してきているようだ。
2.葛籠尾崎(つづらおざき)
このあたりでは急な山の斜面が直接琵琶湖に入っており、湖岸に道はもちろん、僅かな浜さえない荒々しい地形である。
このあたりの水深約70メートルの湖低から夥しい数の土器がほぼ完全な形で見つかった。このあたりの湖底にはまだいくつの土器が沈んでいるか判らないというが、このように深い水中から土器が完全な形で、土中にも埋まらないで発見されるのは多くの謎とされている。現在最も有力な説は「祭祀説」といわれている。
3.菅浦遠望
湖上から菅浦集落を眺める。
正面の船溜りを中心にして、大きく東村と西村に分かれる。
集落背後に迫る山は日あたりのよい南斜面なので、ミカンも成るという。
4.菅浦集落
菅浦集落の景観の特徴である石積み。
今までずっと、この石積みは琵琶湖の波除けのためだとばかり思っていたが、この画面の右にもう一段同じような石積みがあり、そちらは琵琶湖からの波除けかもしれない。この一段上に築かれた石積みは、かつて、この道路が集落内の運河であった頃、この運河の増水に備えて設けられたものとのこと。そういわれてみればこれは石垣状ではなく塀状になっている。
5.山本山と尾上漁港
菅浦から再び船で尾上漁港に帰ってくる。
山本山(324m)の麓にある尾上漁港を遠望する。右遠方に伊吹山(1371m)。
今でもまだ謎の多い葛籠尾崎湖底遺跡であるが、尾上の資料館を見学した後、船に乗って葛籠尾崎湖底遺跡の現場に向かい、遺跡の真上の湖上で説明を聴く。
その後、菅浦に向かう。
いつも見慣れた景色を湖上から見られる滅多にない機会であった。
今日の始点 ⇒・・・・
今日の終点・・・・⇒

尾上漁港から湖上タクシーに分乗して葛籠尾崎に向かう。
天気は上々で、船のスピードで受ける風がとても気持ちいい。
船上から琵琶湖周囲の景色を楽しんでいる内に竹生島が近くなる。ここから見る限り、北面の鵜の被害は一時より減って、緑が回復してきているようだ。

このあたりでは急な山の斜面が直接琵琶湖に入っており、湖岸に道はもちろん、僅かな浜さえない荒々しい地形である。
このあたりの水深約70メートルの湖低から夥しい数の土器がほぼ完全な形で見つかった。このあたりの湖底にはまだいくつの土器が沈んでいるか判らないというが、このように深い水中から土器が完全な形で、土中にも埋まらないで発見されるのは多くの謎とされている。現在最も有力な説は「祭祀説」といわれている。

湖上から菅浦集落を眺める。
正面の船溜りを中心にして、大きく東村と西村に分かれる。
集落背後に迫る山は日あたりのよい南斜面なので、ミカンも成るという。

菅浦集落の景観の特徴である石積み。
今までずっと、この石積みは琵琶湖の波除けのためだとばかり思っていたが、この画面の右にもう一段同じような石積みがあり、そちらは琵琶湖からの波除けかもしれない。この一段上に築かれた石積みは、かつて、この道路が集落内の運河であった頃、この運河の増水に備えて設けられたものとのこと。そういわれてみればこれは石垣状ではなく塀状になっている。

菅浦から再び船で尾上漁港に帰ってくる。
山本山(324m)の麓にある尾上漁港を遠望する。右遠方に伊吹山(1371m)。
Posted by ミッチー at 11:55│Comments(2)
│琵琶湖逍遙
この記事へのコメント
こないだの銅剣もそうですが、何かがみつかると祭祀。
使い方が解らないと祭祀。
巨石が出ると祭祀。
鏡が出ると祭祀。
古墳が有ると祭祀。
何でも祭祀にしたがるのが学者さんなんでしょうが、じゃあ祭祀ってどんな祭祀だったのか?。
誰も説明出来ませんよね?。
それに、古代の人々は年がら年中お祭りしてたのか?。
有り得ませんよね。
普通に考えたら、ただ単に地面が陥没したって事。
土器の時代に天変地異が有って地面が陥没し、湖水中になっただけ。
当たり前に考えたら、それしか原因が無いのに、祭祀だったなんて。
どんな理由でどんな祭りをしてたのかさえ説明出来無いのに、何でもかんでも祭祀用だっただなんて決め付ける、学者の頭の方がお気楽祭りだと思いますよ。
だから学者は嫌いなんです。
琵琶湖が出来た年代だって、今の説が絶対である裏付けも無いはずですし。
少なくとも湖北水中遺跡の辺りは、その土器の年代までは陸地で、その土器の時代に陥没したと考えるべきと思います。
使い方が解らないと祭祀。
巨石が出ると祭祀。
鏡が出ると祭祀。
古墳が有ると祭祀。
何でも祭祀にしたがるのが学者さんなんでしょうが、じゃあ祭祀ってどんな祭祀だったのか?。
誰も説明出来ませんよね?。
それに、古代の人々は年がら年中お祭りしてたのか?。
有り得ませんよね。
普通に考えたら、ただ単に地面が陥没したって事。
土器の時代に天変地異が有って地面が陥没し、湖水中になっただけ。
当たり前に考えたら、それしか原因が無いのに、祭祀だったなんて。
どんな理由でどんな祭りをしてたのかさえ説明出来無いのに、何でもかんでも祭祀用だっただなんて決め付ける、学者の頭の方がお気楽祭りだと思いますよ。
だから学者は嫌いなんです。
琵琶湖が出来た年代だって、今の説が絶対である裏付けも無いはずですし。
少なくとも湖北水中遺跡の辺りは、その土器の年代までは陸地で、その土器の時代に陥没したと考えるべきと思います。
Posted by 祭祀って? at 2013年09月23日 01:43
祭祀って? さま
貴重なコメントありがとうございます。
考古学者は遺跡の成立原因に決め手がないと何でも 祭祀にしてしまうとのこと。祭祀にしておけば、精神的にも抽象的な説明がし易いからでしょうか。
葛籠尾崎湖底遺跡の場合にも成立原因には諸説あり、いづれの説も万人を納得させる決め手は今のところありませんが、祭祀説が最も有力な理由として、
1.遺跡地の範囲が限られていること。
2.遺跡が地中に埋まっていないこと。
3.採集される土器が割れないで完形であること。
4.採集される遺物のなかに日常生活に使われるものではない精緻、小形 なものがあること。
5.採集される遺物が土器ばかりで石器、木器が無いこと。
6.葛籠尾崎の正面に古くから神の島tごして崇められてきた竹生島があ り、塩津から高島方面へ向かう船がこのあたりで航海の無事を祈り、豊 漁を祈って祭祀を行っていたらしいこと。
等が言われています。
しかし、遺物のほとんど全てが日常生活に使用された土器で、煤や吹きこぼれの痕跡も認められる。また、縄文時代から平安時代まで約9000年の間、続いた祭祀がなぜ突如として途絶えたのかも疑問。
葛籠尾崎湖底遺跡の成立原因は諸説あるも、いずれも決め手となる説はなく、今後も調査研究されていくものだと思います。
貴重なコメントありがとうございます。
考古学者は遺跡の成立原因に決め手がないと何でも 祭祀にしてしまうとのこと。祭祀にしておけば、精神的にも抽象的な説明がし易いからでしょうか。
葛籠尾崎湖底遺跡の場合にも成立原因には諸説あり、いづれの説も万人を納得させる決め手は今のところありませんが、祭祀説が最も有力な理由として、
1.遺跡地の範囲が限られていること。
2.遺跡が地中に埋まっていないこと。
3.採集される土器が割れないで完形であること。
4.採集される遺物のなかに日常生活に使われるものではない精緻、小形 なものがあること。
5.採集される遺物が土器ばかりで石器、木器が無いこと。
6.葛籠尾崎の正面に古くから神の島tごして崇められてきた竹生島があ り、塩津から高島方面へ向かう船がこのあたりで航海の無事を祈り、豊 漁を祈って祭祀を行っていたらしいこと。
等が言われています。
しかし、遺物のほとんど全てが日常生活に使用された土器で、煤や吹きこぼれの痕跡も認められる。また、縄文時代から平安時代まで約9000年の間、続いた祭祀がなぜ突如として途絶えたのかも疑問。
葛籠尾崎湖底遺跡の成立原因は諸説あるも、いずれも決め手となる説はなく、今後も調査研究されていくものだと思います。
Posted by ミッチー
at 2013年09月24日 02:38
